急登に心がくじけそうになった頃、茅葺き屋根の立派な建物がまるで救世主のように現れる。これまで数え切れないほどの旅人の疲れを癒してきた「甘酒茶屋」だ。
「お客さまの中には、この甘酒で命拾いしたと言ってくださる方もいるんですよ」
毎日仕込むという熱い甘酒を盆から下ろしながら13代目店主の山本聡さんが言う。
「さっきまでの急坂が最高の隠し味になってます」
いたずらっぽく笑いながらそう続ける。
江戸時代から続くこの茶屋は参勤交代の大名行列が立ち寄った場所でもある。
そのことに思いを馳せると、雰囲気のある薄暗い室内のせいもあってか、一瞬江戸時代にタイムスリップしたかのような錯覚におちいる。
山本さんの語りに耳を傾けながら甘酒をすすり、焼きたてのお餅をいただく。五臓六腑に染み渡るとはこのこと。この美味しさをブーストしているのが、さっきまでの急坂なのだとしたら、ご褒美としては十分過ぎる。
江戸時代からまったく製法を変えていないというこの甘酒は、米麹とお米のみで作られていて、栄養満点。酒粕を原料にして、砂糖を加えて作られたものとはまったくの別ものなのだ。
「江戸時代のスポーツドリンクですね」
ほかにも飲む点滴、飲む美容液なんて呼ばれたりもすると山本さんが教えてくれる。甘酒のポテンシャル恐るべし、なのだ。
甘酒茶屋から先は、芦ノ湖方面に向けて下って行くことになる。途中で、お玉ヶ池に立ち寄る。ここには、悲しい逸話がある。いまから300年以上前、お玉という少女が関所破りで捕らえられた。お玉は、江戸に奉公に行っていたのだが、家が恋しくてつい関所を破ってしまった。当時は関所破りといえば厳罰。打ち首の上、首を獄門に晒されたという。それを哀れに思った住人たちが、お玉の首を洗ったというのがこの場所だ。
いまはただ、葦が風にたなびく、美しい池が広がっている。
坂を下りきると、いよいよ芦ノ湖が見えてくるのだが、この日はあいにくの天候。でも、すこん、と抜けた富士山を望める芦ノ湖も良いけど、霧もこのあたりの特徴でもある。霧の中で寄せては返す芦ノ湖の水面は、まるで異界の入り口。江戸時代の旅人はこの風景にどんな畏敬の念を抱いたのか。過去に想いを馳せるなら、こういう神秘的な天候も悪くない。
雨が降りしきる中、箱根の関所へと足を進める。しばらく前から少し風も出てきていた。そんな時に突如として現れるのが、立派な杉並木だ。樹齢約350年の巨木が、約400本立ち並ぶ。江戸時代にここを通過する旅人を風雨から守る目的で植えられたというこの杉並木。最新のレインウェアを着ている現代人でもありがたいのだから、笠に蓑姿だった江戸時代の旅人からすれば、どんなにホッとする空間だったことか。
いよいよ、この先には箱根の関所が待っている。
いまある箱根の関所は2007年に再建されたものだが、江戸時代の史料を細かく研究し、完全再現されたもの。当時の技術や道具を使っているので、まさに江戸時代に建っていたもの、そのままの姿で現れる。すっかり江戸の旅人気分になっている身としては、“立ちはだかる”という言葉を使って表現したくなる堂々とした佇まいだ。
今回の旅では、江戸の気配を色濃く残した数多くの場所を巡ったが、これだけコンパクトに凝縮されたエリアは、日本広しといえども箱根以外にない。そして、歴史と人に触れることで次々と知らない箱根が立ち現れてきた。
旅の終わりを迎える頃、都心からほど近い箱根のはずなのに、ずいぶん遠くに来たように感じた。旧東海道が歩んできた歴史を思い、江戸時代の箱根という存在を意識することで、ある意味、時間をも旅したからかもしれない。