海と人が育む 優しい環
伊勢志摩国立公園と言えば、やはり真っ先に浮かぶのは伊勢神宮だろう。ただ、いろいろと調べていくと国立公園内の96%が民有地だというデータが出てきた。人が暮らす、というのは日本の国立公園の特徴のひとつだが、その中でもトップクラスの居住人数だ。そこにこそ、伊勢志摩の特色が現れているのではないだろうか。そう考え、国立公園に暮らす人々に会いに行くことにした。
- 案内地
- 伊勢志摩国立公園
鳥羽から出ている定期船に揺られること15分。船はあっという間に管島の港に到着した。
こぢんまりとした漁港があり、海から駆け上がる斜面に沿って家々が密集している。日本の原風景のような景色にほっとする気持ちはあるけれど、おそらく観光地としてたくさんの人が押し寄せるような場所ではない。ここを訪れたのは、すでに港で待ってくれていた島の子たちに会うのが目的だった。揃いのTシャツで「ようこそ、菅島へ」という手作りボードを掲げた島っ子たち。菅島小学校の全校生徒17人。今日のガイドは彼らだ。
菅島小学校と地元のガイド会社である「海島遊民くらぶ」が協力して生まれた島っ子ガイドという取り組み。これは「あまり人が来ない島だから、子供たちが外に出たときに、うまくコミュニケーションを取れるのかが心配」という島の大人たちの声がきっかけで生まれた。特別授業として、島の外から来る人に対して、島の魅力を伝える発表をおこなうというものだ。年に一度、島外の人と一緒に島を歩きながら島っ子がガイドしてくれる、島っ子ガイドフェスティバルも開催されていて毎年大人気だという。
元気な声が体育館に響く。この日はあいにくの雨。予定されていたリハーサルは、本来なら実際に島を巡りながらおこなうのだが、今日は体育館で行われるという。
島っ子たちの発表が実に楽しい。
地元のお祭りの話、海女さんの道具について、このあたりで釣ることが出来る魚の菅島弁での呼び名、どこの海苔がおすすめか、島っ子の間でどんな遊びが流行っているかなど、それこそネットで検索してもぜったいに出てこない地元の話。普通の旅行では知り得ないことばかりだ。
実際にその場に足を運ぶことの大切さ。現地にいかないと知ることができないことがたくさんあるという、旅の原点をも思い出させてもらった。「ここの浜でよく釣りをするのは誰でしょうか?」という島っ子クイズには思わず笑みがもれたけれど。
発表が終わると、島っ子たちがわらわらと寄ってくる。人なつっこいという表現がぴったりで、人との距離が近い。
「私が1番見たいのは、アフリカにいるクラゲなんだよ!」
菅島近辺のクラゲを紹介してくれたクラゲ博士がぐいぐい来る。もともとコミュニケーション能力を高めるためにはじまったというこのプロジェクトだが、この島っ子たちの好奇心を見ると、どうやらとてもうまく行っている。
発表後には、プロガイドである兵頭さんが、「ここをこうしたらもっと魅力的に伝わると思うよ」など、ひとりひとりに丁寧にアドバイスをしている。この経験はきっと大きくなってからも役に立つはずだ。そして、コミュニケーション能力だけでなく、地元を誇る心も育ててくれるだろう。そもそも島っ子たちが住むこの菅島は、国が認めた国立公園なのだから。
伊勢志摩国立公園を、海女さん抜きには語れない。
残念ながら、この日予定していた漁が急きょ中止になったため、漁をしているシーンの取材をすることはできないが、みなさん、海女小屋に集まっているということで、お邪魔することにした。今回受け入れてくれたのは石鏡の海女小屋。
到着するとおやつタイムの最中。賑やかな部室のような雰囲気だ。
海女小屋の真ん中にはカマド(囲炉裏)があり、薪が炎を上げている。ここは漁の準備などをする場所であり、暖を取るという重要な役割もある。代々、この地域の海女さんに引き継がれてきたものだという。
入口付近で緊張していると「ご苦労さんやなあ。お餅食べな」と薦めてくれたのは、80歳を超えるというベテラン海女さんだ。
「中学卒業してからずっと海女さんやったんやけど、結婚を機に就職して、定年したからまた戻って来たんよ」
なんで戻って来たんですか、という質問には「だって目の前に海があるもん」と、当たり前のように答える。
「体がぜんぶ覚えとるもん、海のことは。手っ取り早いわ」
キラキラとした眼が印象的な、長年この石鏡の海を見てきた生き字引だ。昔と今で海は変わりましたか、という質問が自然と出てきた。
「そりゃ変わっとるわな。いちばんは海藻が減ったことやな。アワビは海藻が大好物やから自然と減っていくし」
「美味しいのが減って、いらんのが増えとる」
「ヒジキも少ないしなあ」
「石鏡はまだあるほうやけどな」
そんな中、ひとり東京弁が残る海女さんがいる。奥のほうに座る凛とした雰囲気の女性。大野愛子さんだ。東京から移住してきて海女さんになったという経歴をもつ。
「ダイビングが趣味だったので、いろんな海には潜ってきたんですが、はじめてここの海に潜ったときに、海藻の量に驚きました。もう森みたいな。そんな海はかつて見たことがなかったです」
地元の海女さんだからこそ、海の恵みが減っているのがわかるが、まだまだ豊かさは残っているのだ。これには海女文化が大きく影響しているように思う。
海女漁ではアワビにしろサザエにしろ、小さなものを獲らない。そうした取り組みを誰に言われたわけでもなく脈々と受け継いでいる。いまでこそ制度化されているが、その慣習は少なくとも2000年以上前から続いているそうだ。それだけでなく、稚貝の放流もおこなってきた。ここで獲れるのはアワビ、サザエ、ナマコ、ヒジキなどの海藻。時期によって変わってくる。
「獲りすぎたら後で困るのは自分たちやからな」
いまでこそ持続可能性などという言葉があるが、それが生まれる前から海女さんたちは体感としてそれを感じ、実行してきた。だからこそ、ここまで長く続いてきたのだろう。
この小屋の海女さんたちは、身ひとつでそのまま海に入っていく。その他には船に乗り合って漁場まで向かう船人というやり方もある。
「昔はこのへんでも夫婦船もあったけどね。うちのお母さんはそれやった」
「わしが子供の頃は、みんなわっしょいわっしょい言って、船を陸にあげてたんよ」
「その頃は木の船やったからな。海に浮かべてたら傷んでしまう」
夫婦船とは、夫が操船し、妻が潜る。船と海女さんは綱で繋がれていて、緊急時などには夫が引き上げる。かつては櫓を漕いで漁にでていたというから、どちらも重労働だ。
「いまはもうおらん。みんなあっちの世の中に行ってしもうた(笑)」
パチン、パチンと薪が爆ぜる音とともに、テンポ良く会話が続いていく。もちろん漁の会話も多いけれど、おすすめのお惣菜の話なども出てきて、やっぱり部室みたいだ。
「わかめ切りは、ひでばあが上手やったな」
「肘で抑えて、うまいこと切るんやろ?」
「あれはいいもん見せてもらったな」
「こんど実験してみよ」
上手い下手が明確に分かれる実力主義の世界なんですね、と思わず当たり前の質問をしてしまうが、みんな親切に答えてくれる。
「海女さんはピンからキリまでよ」
「同じ海に入っても1000円にしかならん人と10万円になる人がおるんやから」
「こんなひどい商売あらへんがな(笑)」
「でも、だから愛ちゃん(大野さん)もやりがいあるやろ?」
大野さんは、期待のホープでもあるという。先輩、後輩というより仲の良い同僚という雰囲気だ。カマドの火はとうに消えているが、海女さんたちのお茶会はまだまだ続きそうだ。
大野さんと一緒に、仕事場である海まで歩く。海女小屋を振り返りながら、石鏡で良かったと言う。
「この海女小屋はみんな仲良いんです。ああいう風にカマドでワイワイやってる時間がとても楽しいんです。うちの小屋は、年齢層も幅広いし、私みたいな余所から来た人間もいる。多様性がありますね」
もともと海女さんになろうという発想はなかったという。地方移住を検討していたときに、たまたま石鏡で募集しているのを見かけて、海女さんとして生きていくことを決意した。
「でも、余所者が海女になるなんて前代未聞。そんな私を受け入れてくれたいまの小屋には本当に感謝しています。 なんでこんなに世話してくれるんだろうって、なんども思ったことがあります。これは聞いた話なんですが、集落で火事になった家があって、みんなで海に潜ってアワビを獲って建て直してあげたこともあるそうですよ」
天候にもよるが、漁は夏冬あわせて90日ほどで、1日2回潜る。夏は1回75分、冬は70分。それをこの海で? 相当なハードワークだ。
そんな海女さんの生活で学んだことってなんですか? と訊ねてみる。
「頑張らないことを覚えました。自然が相手なので人間の力ではどうにもならないこともありますから」
でも、海女小屋の様子を見ていると、人の環(わ)によって変えていけることも多い気がする。それこそ大野さんの人生が変わったように。
「徹底的に海と関わるって決めているんで、もし石鏡の海にアワビがいなくなったとしても、今度は増やす活動をしていきたいと思っています」
そういう大野さんの笑顔は、なるほど良い意味で力の抜けたものだった。
バリアフリー ツアーというものが生まれたのは、ここ伊勢志摩だ。
「行けるところより、行きたいところに」
この素敵なキャッチコピーは、野口あゆみさんが事務局長をつとめる「伊勢志摩バリアフリー ツアーセンター」が掲げているものだ。
あゆみさんがこの活動を始めたのは、ある人との出会いがきっかけだったという。
バリアフリーツアーセンター副理事、セイラビリティ伊勢の会長を兼任する、現在の旦那さんである野口幸一さん。車椅子を使用している。
「当時タウン誌の編集に係わっていたのですが、彼から『障がい者が知りたい情報がない』という指摘をもらって」
「僕たちはバリアフリーだからそのレストランに食事に行くのではなくて、そこに行きたいから行くんだ」という言葉にハッとさせられたという。それまでのバリアフリー情報というのは、バリアフリーになっている場所についての情報しかなかった。ここなら行けますよ、といういわば受け身の情報。そうではなくて、行きたくなるような魅力的な場所に、どれだけ段差があるのか、エレベーターはあるのか、そういう現場の情報が知りたい、というのが幸一さんの考え方だった。
「それが分かっていれば、たとえば段差を越える方法を考えたりするわけです。でも情報がないとそれもできない。最初から諦めるしかないというのは、面白くないですよね」
そんな幸一さんの意見をもとに、現地の情報をありのまま伝えることに特化した情報誌を制作し、その2年後にNPO法人伊勢志摩バリアフリーツアーセンターが発足した。
「選択肢を増やすということを意識して作っています。行ける場所だけ提示するのではなく、行きたい気持ちを起こさせるということもとても大切です。そして、人が入ってくれば、おのずと設備のほうも整ってくるはずなんです」
どこかに行きたい、なにかをしたいと考えたとき、何かしらのバリア(障害)は付きものだ。それをどうやって越えていくか。実はそれも楽しみのひとつなのだ。健常者か障がい者かというのは、その思いに関して関係がない。
「たとえば、病院でのリハビリではどうしても上がれなかった2段の段差が、ここに行きたいという、思いのお陰で越えられることだってあると思うんです」
人の環はさらに繋がって行く。現在、幸一さんはハンザというヨットに夢中だが、そのきっかけも「セイラビリティ伊勢」をのちに発足させる強力 修さんと、あゆみさんがつながっていたからだという。
ハンザとは、船体の形状などを工夫することで、転覆の危険性を極限まで減らしたヨット。障がい者だけでなく、子供や高齢者でも楽しむことが出来るようにという思いから、オーストラリア人のクリス・ミッチェル氏が開発したものだ。
幸一さんがハンザで海へ出る。隣でサポートする人が同乗するわけでもなく、完全に単独だ。風を受けたハンザはすーっと気持ち良さそうに進んで行く。
試しに一人で操船させてもらったが、これがなかなか難しく、思ったように進んでくれない。自然を前にすれば、人はいつでも平等だ。
セイラビリティ三重では、独自開発のB-SAMというアプリを入れたスマホを使うことで、目標となるブイまでの距離と方向をヨットに乗りながら聞けるようにした。これのお陰で、視覚障がいを持つ人も、補助なしでハンザでのレースを楽しむことができるようになった。
「我々はインクルーシブな競技を目指しています」
名は体をあらわす。ひと目みただけで、パワフルかつカリスマ性に溢れているであろう、セイラビリティ三重の強力 修さんが言う。ここで言うインクルーシブとはつまり、健常者と障がい者が同じ舞台、条件で競い合うということだ。
「でも現状では、インクルーシブという部門があるのに、同じ大会に別で障害者の部門があったりする。おかしいですよね。ことハンザに関して、健常者と障がい者を分ける必要はないと思っています。さらに言えば、障がいにもさまざまなものがありますが、そこの壁すらなくして、同じ土俵で楽しんで欲しい。B-SAMを開発したのもそういう思いがあったからです」
勝ち負けは置いておいて、チャレンジ自体は平等にできる世界。まっすぐ眼をみて喋る強力さんの言葉には優しさと迫力が同居している。
「それまでいろいろな競技をやっていたんですが、ヨットだったら健常者と対等の立場で勝負ができる。優勝だって夢じゃない。燃えますよね」
幸一さんが生き生きとした笑顔で続ける。
バリアフリーツアーやハンザを推進することで、すべての人に美しい景色を眺めたり、ハンザなどのアドベンチャーを楽しむチャンスがある。伊勢志摩国立公園の独自性はまさにそこかもしれない。障がい者でも高齢者でも楽しむことができる、門戸が開け放たれた国立公園なのだ。
バリアフリーツアーセンターにしても、セイラビリティにせよ、どちらも営利を超えたところでの活動だ。その根っこにあるのは人の環が生む、平等と親切の精神だ。古くからさまざまな旅人たちを受け入れてきた伊勢神宮の影響、お伊勢さんDNAのようなものが受け継がれているのではいだろうか。ついつい、そんな仮説まで膨らませてしまう。
「これがブイ、こっちは志摩の真珠養殖で使っていたカゴですね」
これらすべてが材料になるという。田中翔貴さんがCPOを勤める「リマーレ」は、海洋プラスチックごみをリサイクルする会社だ。
粉砕してからフレーク状にして、独自開発した特殊なプレス機で熱圧縮して板状にする。海外ではだいぶ普及してきている技術だが、日本ではまだリマーレ一社のみだ。出来上がった板材を切削加工することで、さまざまな形状のものに生まれ変わらせることができる。
漁具をメインの素材にしたのは、単純に量が多いからだという。たしかに、漁港などを歩くと使われなくなったブイなどが放置されているのをよく見かける。
「漁具だとどうしても黒がメインになってしまうので、アクセント的に色を入れたりいろいろ工夫をしてます」
漁具100%で出来たテーブルは、紫外線で劣化した部分が良いアクセントになっていて、元廃棄物という印象は受けない。むしろ独自の表情を持った新素材として捉えるべきかもしれない。このテーブルは東京のアート展にも出品されたという。
その他に、実験的なこともおこなっている。
リマーレの特徴的なところは、単一素材じゃなくてもプレート化できるところだ。
ペットボトルは、蓋とラベルを取り払ってからリサイクルゴミとして出す。これは異なる素材が混ざるとリサイクル費用が上がり、質にも影響してしまうためだ。
「うちの最大の特徴は、まさにそこで、ごちゃまぜになってしまっているものをリサイクルできるんです」
だから材料も海洋プラスチックごみにかぎらない。
目に入るすべてのプラスチック製品が対象になってくる。
最近取り組んでいるのはプラスチックとアルミの複合材。たとえば、飴の包装紙や薬のシート、いわゆるPTP包装と言われるものだ。これらを分離するのにはかなりコストがかかるため、リサイクル素材としては目を向けられていなかった。だが、リマーレではこれをダイレクトに粉砕、熱圧縮することで板状にすることに成功しているのだ。
そうしたゴミたちを素材に作ったプレートを利用して、家具をはじめ、さまざまなプロダクトも作っているが、いずれも「これが元ゴミ?」という独特で美しい質感を持っている。偶然性が生み出す柄も楽しい。ちなみにプロダクトになった状態のものを再び粉砕して、違うものに生まれ変わらせることもできる。永遠のループだ。
リマーレの取材を終えた後だと、プラスチックを目にするたびに、あれも循環できる? これもいける? という思考になる。要は世界の見方が変わってくる。
国立公園の看板などに海洋ゴミをリサイクルしたプレートを活用するのも、メッセージ性があって良いのではないか。ゴミがゴミにならない世界への可能性。これも人が作り出す素敵な環だ。
取材最終日、予定にはなかったが再び菅島へ。晴れの島を見てみたくなったのだ。
雨で行けなかった島っ子たちの発表の場所を回ってみる。
発表で出てきた灯台、ごっこ遊びをするという浜辺、よく釣れるという堤防。人の環に触れたことで、それまで縁もゆかりもなかった土地なのに、ただいまという感覚がある。
日本屈指のリアス海岸などの景観的美しさはもちろんだが、この旅で一番の収穫は、素晴らしい人たちが生む輪がたくさん見つかったことだ。
島っ子の発表にも出てきた杉田商店のコロッケを食べながら港へと戻る。
校舎からは、島っ子たちが授業を受ける元気な声が響いてくる。