繋いで行く 悠久の歴史
吉野熊野国立公園はコンテンツが豊富だ。正直言って、どこを掘り下げていっても興味深いものになるのは分かっていた。
環境省の方々とも相談を重ね、悩んだ結果、熊野修験、瀞峡、そして田辺の里海を選んだ。
その3つを巡ることで見えてきたのは、さまざまな繋がり。
山、川、海、里。そして、人と人。
それらの土地の歴史に触れつつ、それを未来に繋いで行くために、いまなにが必要なのかを探る旅へ。
- 案内人
- 髙木 智英 / 東 達也 / 山西 秀明
- 案内地
- 吉野熊野国立公園
名古屋発の南紀特急で新宮へ向かう。津の手前あたりから右手に見えていた山々が徐々に近くなってくる。そして松阪を過ぎ、多気町のあたりから列車の両側が森になり、一気に自然の勢いが強くなる。時に列車に触れそうなほど木々が近づく。まるで翠のトンネルだ。山としては高くはない。ただし、深い。
紀伊半島中央部に果無山脈というものがある。
しわしわ、と地元の人は言ったりする。
山の上から眺めたことがあるけれど、たしかに果てしなく山並みが連なっている。吉野熊野国立公園エリアを上空写真で俯瞰して見ると、突如として険しく、緑が濃い。海岸部から即、森が始まる。
奈良、大阪など古代から栄えてきたエリアに近いにも関わらず、熊野に稲作が入って来たのは江戸も末期になってからだという。それはつまり稲作などまどろっこしいことをせずとも、狩猟採集、漁撈採集で十分潤っていたという見方もできる。もちろん気象的な激しさはあったが、それも含め自然が強い土地なのだ。
恵みと厳しさが同時にある土地。そうした背景の中で自然信仰である熊野修験が生まれたのは必然だった。
那智原始林。熊野三山の一角、熊野那智大社の神域。例外を除いて関係者以外の立ち入りは禁止されている。禁伐地として伐採から守られてきた場所で、原生的な自然がそのまま残っている日本でも希有な場所だ。ただし、自然が濃いぶん、道は険しい。
すぐ前を歩くのは青岸渡寺副住職の髙木智英さんだ。スッと上に伸びる樹木のような、佇まいが静かな人だ。話す様子からも、自分を大きく見せることをしない、謙虚な人柄がにじみ出ている。
頭には頭襟を被る。いわゆる古代のヘルメットだ。白衣の上に鈴懸と呼ばれる上衣をまとい、結袈裟を首にかけている。腰の後ろには獣の毛皮を使った引敷、足元は脚絆と地下足袋でしっかりと固めている。そして肩から下げた法螺貝。
その凜とした修験者の立ち姿は、古代へタイムスリップしたかのような感覚を与える。
髙木さんは修験者であり、天台宗の僧侶でもある。副住職を務める青岸渡寺は吉野熊野国立公園内、那智の滝のそばにある熊野修験発祥の地だ。熊野修験には大峯奥駈などさまざまな修行があり、髙木さんもそれらを修めている。
修めている、というのは言葉がちょっと違うかもしれない。
苛酷な修行をおこなうのは自分のためではないのだ。
なぜ? という問いに「世界の平和、人々の安寧を祈るためです」と迷いなく言える利他の凄みがある。
この那智原始林は、そんな修行のひとつ、四十八滝回峯の場でもある。四十八滝回峯とはその名のとおり、1月の小寒から大寒にかけて、一の滝(那智の滝)からはじまり、二の滝、三の滝と大小四十八の滝を巡り、祈りを捧げていく行だ。
原始林に入ったのが空気感でわかる。樹種は多様で、温帯性と暖帯性が入り交じった美しい照葉樹の森だ。構成種も幅広い。ときおり、御神木クラスの巨木も現れる。
那智の山は南方熊楠も通い続けた場所でもある。
博物学、民俗学、植物学に通じた稀代の研究者である熊楠は、ここで宇宙と繋がる感覚を得たという。熊楠が熊野で集めたのは、菌類2533種、藻類は852種にものぼる。
急峻な登りにさしかかると「ろっこんしょうじょう」「さーんげ、さーんげ」という掛け念仏の唱和がはじまる。
漢字にすると「六根清浄」「懺悔、懺悔」となる。六根とは眼、耳、鼻、舌、身、意の6つ。つまり人間の全業。罪を懺悔し、山を一心不乱に歩くことで、それらを清らかにしていくという意味だ。
実はこの四十八滝回峯などの修行含め、熊野修験は1872年(明治5年)の修験道廃止令もあり、途絶えていた。それを復活させたのが髙木さんの父、現在の青岸渡寺住職であり、熊野修験正大先達の髙木亮英さんだ。四十八滝回峯、大峯奥駈などの修行に加え、2023年には研鑽する道場として、150年振りに行者堂も再建している。
「大変だったと思います。明治時代に廃れてしまっていたので、四十八の滝がどこにあるのか、正確な場所も残されていませんでした」
なんと、一本の古い絵巻だけを手がかりに、それらすべてを探しだし、復興させたという。
それを繋いで行くということの意味を髙木さんに問う。
「まずは受け継いでいくことが肝要だと思っています。熊野修験は1000年以上続いていますが、明治に一度途絶えてしまっています。それを復活させることの大変さは、父を見ていて痛感しています。だから、継続させること、ということはなにより大切にするべきことだと考えています。それにくわえて、実際に体験していただく。もともと熊野の修験者はガイド的な側面も持っていました。だから修行なども、もっと敷居をさげて、世界中の人に歩いていただきたいという考えは持っています」
YouTuberの人を案内したこともある。本質は変えず、より開かれた修験道、というのが髙木さんの見ている未来かもしれない。
歩くペースが速い。休憩もほとんどしない。いわゆる登山地図のコースタイムで言うところの、1.8倍くらいのペースだろうか。ただ、これも本来のスピードではなく、取材陣を慮ってのものだ。
登山ではない修行としての山歩きというものを初めて経験する。どんどん内面が静かになっていく感覚があり、ある種の瞑想状態に近い。
沢にぶつかるが、とうぜん橋などあるはずもない。通常の登山道とは違い、歩く人が少ないからこれでもかというくらい苔で青々とした岩を足場に渡って行く。そんな渡渉を3度繰り返し、ようやく最初の二の滝に辿り着く。
髙木さんたち修験者は休む間もなく、滝に祈りを捧げていく。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前(りん、ぴょう、とう、しゃ、かい、じん、れつ、ざい、ぜん)」。法螺貝のあとに高木さんが邪気を払う九字を切り、勤行する。
山に入ってから、髙木さんの表情はつねに引き締まっている。
今回は二の滝、三の滝の2つを巡っただけだが、これを四十八。予想以上にハードな行だ。
「たまにはいいでしょう? 日常から離れることができるので」
山を降りると、髙木さんが普段の柔和な顔に戻って言う。
「日本は経済的には豊かになったかもしれませんが、精神的な部分ではそうではない面も多い。忙しすぎると考えている人も多いでしょう。そんな時に山に入って、ある程度の負荷を肉体にかけてあげる。そうすることで日常の悩みなどが小さなことに感じられるはずです。これは修験にかぎらず、山を登るという行為にそうした要素があるのではないかと考えています。だからそんなに難しく捉えていただく必要はありません。たとえば海外の方で、言葉が通じなくても一緒に歩くことで得られるものがあると思っています」
修験の場合はそこに祈りが加わるから、より純化される。修験には山林抖擻(さんりんとそう)という言葉もある。これは一心不乱に山を歩くことで煩悩を捨て清らかな心を取り戻すということ。一部とは言え、修行に同行させてもらったいま、心身から靄が晴れる感覚がある。
「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」。熊野修験の自然観だ。一木一草、全ての生き物には、仏性(仏になりうる性質)があるというもので、原始林から戻ると、それが実感できる。修験にかぎらず、山に入るということはきっとそういうことなのだ。物質的利益は無いけれど、心がよくなる、そんな感触がある。
「通常の修行で無の境地にいたることはとても難しい。ですが、祈りながら、拝みながら山を歩くと、無心になれる瞬間がたくさんあるはずです」
那智参詣曼荼羅というものがある。その名の通り、那智詣の様子を曼荼羅にしたもので、これをみると、那智勝浦には古くから、さまざまな宗教、宗派が同時に存在していたことがわかる。参詣者も貴族から庶民まですべての人々を受け入れてきた。
なんというか、おおらかなのだ。
「細かいところは自分たちがわかっていれば良いことだと思っています。来てくれる方が無理に気にする必要はないんです。どれが良いというものでもありません。仏教でも、修験道でも、神道でも。キリスト教だって素晴らしい」
これこそ古くから続く、熊野信仰の寛容性だ。さまざまな宗教がお互いを認め合って成り立っている。
現在にこそ、思い出したい。
ともすれば変化、進歩が至上とされ、格差を生みがちな現代社会だが、変えずにいることで大切に保存され、必要な時に思い出させてくれる。これも歴史を繋いで行くことの大きな意味だ。
瀞峡はまるで水墨画の世界だ。
年間およそ5000mmにも達するという、日本でも有数の多雨地帯である大台ヶ原に端を発した水の流れ。それがいくつもの小さな滝をうみ、気の遠くなるような時間をかけて北山川の両岸を侵食した結果、この奇跡のような景観をうんだ。古老のような皺が刻まれた岩肌は、否が応でも地球の歴史を感じさせる。
そんな奇跡の中を舟はゆっくりと進んでいく。
左右に眼を向けると、ときおり縦に抉れた地形の奥に水が流れているのが見える。滝が後退した名残だ。
船頭さんは瀞峡生まれの63歳。瀞峡を案内して20年以上。良い色に焼けた、いかにも山の男という風情だ。
「子供の頃からぜんぜん変わらんね。もうやらかいところというのは残ってないんやろうね」
この北山川は、もともと筏師(いかだし)がくだった川だ。上流で伐採された木を筏に組んで、その上に乗って川を下り、木材の集積地として栄えていた新宮まで届ける。時に生死に関わる危険もはらんでいた。
右岸の上方に、趣きのある建物が見える。
舟のすぐ前に座る、東 達也さんが4代目を務める瀞ホテルだ。東さんは開けっぴろげでよく笑う。瀞峡生まれのやんちゃ坊主がそのまま大人になったような印象の好人物だ。
建物は陸を向くのではなく、川側からの見え方を意識した作りだ。看板も川から良く見えるように付いている。筏師たちの宿、というのが瀞ホテルのはじまり。当時は東屋(あずまや)という屋号だった。
瀞とは川の流れが穏やかな場所を指す。ここで筏を少し大きく組み直したり、支流から丸太のまま流されてきたものを筏に組んだりして、新宮を目指したのだ。逆に瀞ホテルで必要な資材なども、新宮から川を伝って届けられていた。舟自体も路線バスのような役割を果たしていたという。いわば中継点。川の流通を繋ぐハブのような場所だ。奇しくも現在は、和歌山、三重、奈良の3県の県境でもある。
現在107年続いている瀞ホテルだが、時代とともにその役割は変化していく。筏師の宿から、ジェット船で毎日たくさん訪れる観光客の受け入れ、そして現在は、さらなる転換期を迎えている。
都会で働いていた東さんが、瀞峡に戻って来るきっかけとなったのは13年前の水害だった。建物の一部が流されてしまったのだ。当時、瀞ホテルは休業中だったが、このまま放っておいたら幼いころ自分が過ごした実家とともに、風景までもが失われてしまう。
「無くしてしまうという選択肢はまったくなかったですね。売って欲しいという話もいただいたんですが、いつか再開するかもしれない、という思いもありました。正直、売ったとしても、そのお金でなにをしたいか、というと瀞ホテルの再生なんです。ということは自分でやるしかないんですよね」
現在は、宿泊こそ休んでいるものの、カフェ営業やSUPやカヌーなどのアクティビティの提供など、新たな取り組みをおこなっている。そして行く行くは宿泊も再開したいという。
「カフェ営業、アクティビティにくわえて、2階の部屋を貸し切りで休憩できるようにするところまでは来たんですが、ここは滞在することによる変化が素晴らしい場所でもあります。月明かり、朝靄の瀞峡も見て欲しい。そうなると宿泊していただくのがベストなんです」
新婚旅行で来た。修学旅行で来た。そういう古い思い出を持っているお客さんも再訪してくれる。
「自分にとってもそうですが、思い出を守るという意味でもここは続けていきたい。それもあって、ソフト面は僕のエッセンスもいれているんですが、外観などのハード面はできるだけ創業当時に戻していきたいんです」
瀞ホテルを残すということは瀞峡の景色を残すということ。風景を維持、再生しながら、守るということ。ということは、瀞ホテルだけでなく瀞峡自体も残していかなければ片手落ちになる。くわえて国立公園の特別保護地区でもあるので、地域の保全というところにも眼を向けている。そんな考えが「瀞峡ビジョンデザイン協議会」の発足に繋がった。
「観光の在り方がちょうど転換期に来ていると思っていて、もう一度瀞峡の価値を整理する必要があると思うんです。来てくれた人になにを伝えるべきなのか、というところですね。国立公園やジオパークの観点もいれつつガイドラインを作り、それを語ることができる地元のガイドさんも育っていくのが理想です」
歴史ももう一度整理したいという。古くは地質的成り立ちからはじまって、林業の時代、観光の時代、そういった歴史的、文化的なことも伝えて行きたい。風景としての良さだけでなく、それを成立させているもっと根っこに近い部分。
「変わっていないところと変えるべきところのバランスが大事だと思っています。風景は変わっていないですが、この流域に住んでいる人の関わり方は変化しています。かつての筏師たちの川、観光船でたくさんの人がやってきた時代、そしていまちょっと静かな瀞峡が戻って来ている。自分の関わり方もそうなんですけど、良い形で次の世代にバトンを渡せるような、そんな道筋を見つけ出したいです。その時代ごとにあったものにしていける強固な土台作り。いまはまだ、これだ、という答えは出ていないですが、やっていくうちに見えてくるものだと思っています」
景色が変わらない、というのがひとつの指針になる。
瀞峡には昔から人が住んでいるのに、景色がほとんど変わっていない希有な場所なのだ。1936年の指定からいままで国立公園として守られているが、たいていはその網がかかる以前に開発の手が入ったりするものだ。
この自然による彫刻美は、削れ切ってここから先は変わることはない。ある種、景色としてのゴールだ。それを永続的なものにするかどうかは、人の手に委ねられている。
変えないというのは、なにもしないと同義ではない。変えないために積極的に動く必要があるのだ。
瀞ホテルでは、昔のポストカードの復刻販売や、瀞峡八景という昔のポスターにインスパイアされた展示などもおこなっている。昔と今のリミックス感を大切にしているという。
暮らし、文化、歴史をきちんと伝えていけば、たとえば大規模なリゾート開発などで、この風景が変わってしまうようなことはないはずだ。瀞峡を一度離れた東さんが、再びこの地に戻り、だけでなく、瀞ホテル、ひいては瀞峡を次世代に繋いでいきたいという思いを持ち続けているのが、なによりの証拠だ。
引き続き、繋いで行く、という視点で熊野を見ていきたい。これは信仰や暮らしだけでなく自然にしても同じことが言える。
熊野が豊かなのは山だけではない。
場所は田辺市にうつる。田辺市と言えば熊野古道の玄関口として有名だが、今回の目的地はそこではなく、海。天神崎という場所だ。
案内してくれるのはヒロメラボの山西秀明さん。
ヒロメとは田辺市で古くから食されてきた海藻で、山西さんは静岡の大学でヒロメ研究をしていた経験を持つ。現在は、激減してしまったヒロメを次世代に繋いでいくために、種苗生産などをおこなっている。それにくわえて、田辺湾の魅力を伝えるべく、さまざまな取り組みもしている。小さな頃の遊び場だった田辺の海を守りたいという、ピュアな心がにじみ出ている。
ここ天神崎は、気象条件によって磯の水面が鏡のようになることから、和歌山のウユニ塩湖としてバズった場所でもある。
でも、と山西さんは言う。
「そういう表面的なことに眼を奪われすぎると、本質を見失ってしまう気がします。例えば足元にある水の流れ。これ、淡水なんですよ」
良く見れば、陸側から磯に向かって細い水の流れがある。言われなければ見落としてしまいそうな儚い流れだ。その底にはうっすらと藻が生えている。
「周りの潮溜まりと比べて、ここだけ藻類が多いですよね? 山から栄養分が流れている証拠です」
まさに一目瞭然。山の栄養が海へ、というのは理屈では分かっていたことだが、ここでは視覚的にそれが理解できる。地面に手を当てるとしっとりと湿っているのも感じる。
「海を守るためには、まず山を守らなくてはいけないんです」
それを実感するために、磯から100mも離れていない日和山に登る。標高は35mしかないが、実に見事な生態系がある。田辺が発祥の地である備長炭の原料となるウバメガシも豊富だ。
実はこの日和山ではリゾート開発計画が持ち上がったことがあった。それを食い止めたのが、いま山西さんが評議員を務めている「公益財団法人 天神崎の自然を大切にする会」だ。ナショナル・トラスト運動(市民らの土地買収による自然保護)を50年前に始めていたというから、かなり先駆的だ。
山と海が近い。日本の縮図のような場所だ。小学生などを連れてガイドをすることもあるというが、山の栄養素が海に流れ込むという関係性を伝えるのに、こんなに良い場所もないだろう。まさに教科書のような場所だ。
「この山には岩盤と腐葉土があるので、子供たちにそれぞれ水を掛けてもらって、いかに土が水を保水するかを実感してもらったりもしています」
山の中腹。25年ほど前に山林火災があった場所がある。ここはその後、地元の中学生らの手によって植樹がおこなわれたという。それもただの植樹ではなく、生態系を戻すことを目的とした計画的なもの。おかげでだいぶ植生が戻って来ている。いっぽう、なにも手を入れられていない場所はまだ裸地のままだ。
「きちんと計画をもって手を入れれば、自然は戻ってくるんです。守るだけではだめ。積極的に人間が参加して、繋いでいくことの大切さを子供たちに丁寧に伝えていきたいです」
天神崎は田辺湾の先端にあたる。さらに湾の内部、鳥の巣半島に向かう。パッと見ただけでは、良い雰囲気ではあるが日本各地で見かける小さな漁港のそれだ。集落もある。ここが国立公園?
この鳥の巣半島は、山西さんが里海をテーマにしたインタープリテーションに力を入れている場所だ。里海とは、人手がくわわることで生物生産性と生物多様性が高くなった沿岸地域のこと。国立公園内に人が暮らす、日本らしい考え方とも言える。
クルマ一台がぎりぎり通れる程度の細い道を行く。右手に干潟、左手に田んぼ、という景色に違和感を覚える。こんな近い距離で同居している風景は見たことがない。
「これも山が豊かだからできることなんです。淡水がしっかりと流れ込んでいるから稲の塩害もほとんどないようです」
田んぼとは逆側の干潟へと下りてみる。
「この砂のツブツブ、なんだか分かりますか?」
コメツキガニの食事跡だという。見れば地面一帯がツブツブに覆われている。
「これはマツバガイ、こっちはカメノテですね」
山西さんはうれしそうに教えてくれる。このあたりには、食べられる種類も多いという。
「これはヒジキです。ちなみに日本各地で食べられている海藻は約100種類あるんですが、10個以上言える人は少ないんですよ」
ワカメ、海苔、昆布、アオサ……。たしかに、パッと思いつくのはこのくらいだ。
「鳥の巣半島にいたら、たとえインフラ崩壊したとしても自給自足で生きていけそうです」
たしかに、この場所に居ると、大がかりな漁具など持たなかった古代の人々も、思う存分海の恵みを享受できていたのが容易に想像できる。
干潟を歩く山西さんは、あれが、これは、がとても多い。気がつけば子供の顔で何かを探している。知らない身からすればただの小さな生き物たちも、山西さんにとってはひとつひとつがヒーローだ。
「こんなにも磯、干潟、海藻、海草、サンゴと多様な生態系が凝縮している場所はないんですが、地元の人も含め、ほとんど誰もその貴重さに気付いていないんです」
山西さんはちょっと寂しそうな顔で言う。瀞峡と同様、ここもまた奇跡のような場所だ。それこそ人が住んでいるし、ここも国立公園? と言ってしまいそうなコンパクトさだけれど、いろんなコンテンツが揃っている場所なのだ。
もしかしたら、観光的には受けないかもしれない。それこそ和歌山のウユニ塩湖のようにバズったりもしないだろう。
「地味、ですよね。こんなガイドをしているのも僕だけです。でも知れば、その貴重さがわかってもらえると信じています」
小さなことの積み重ねが豊かさを生む。ひとつひとつは地味な事柄かもしれない。だが、それらを正しく知るということが、保護の心を生む第一歩だ。だから山西さんのような現代の語り部が必要なのだ。
「これ、綺麗だから持って帰ろう」
山西さんが、ガザミ(ワタリガニの仲間)の抜け殻を大事そうに手の平に乗せる。
熊野は、都会的観点からみたら、はっきり言って不便だ。
けれどみんな帰ってくる。
それこそ、後白河法皇は熊野詣をなんと34回。熊野の自然に魅了された南方熊楠もしかり。この地を何度も訪れた偉人を挙げたらきりがないほどだ。
今回取材した3人も、一度は熊野を離れ、そして戻って来ている。その理由を聞いても「なんででしょうねえ」という答えが返ってくる。
海と山が近い? 景色が綺麗? 魚がおいしい? 人が良い? どれも当たりで、そのどれでもない。なんか良いって素晴らしいことなのだ。理屈じゃなく、コツコツと人と土地が積み上げてきた歴史がきっとそう思わせるのだ。
1000年続く修験道、瀞峡を見まもり続ける瀞ホテル、そしていまいる田辺の里海。どれも等しく貴重な存在だ。
叶うことなら百年後の姿も見てみたい。
無理に変える必要はないのだ。いまここにある良きものを地道に次世代へ繋いで行く。きっとそれで良いのだ。