早朝4:30。ご来光バスに乗り込み乗鞍岳を目指す。見上げれば、文字通り目の覚めるような満点の星空。早起きはいつの時代も三文の得なのだ。乗鞍岳はマイカーでの入域は禁止されているが、ご来光バスをはじめ、頻繁にバスが行き来していて、2716メートル地点まで誰でも簡単に行くことができる。バス停の名前もずばり「標高2716m」。日本一標高の高いこのバス停の目の前には、絶好の御来光スポットである大黒岳がある。まだ暗い中、ヘッドランプの明かりを頼りに登って行く。
みるみるうちに雲が山を飲み込んでいく。明けの明星が薄らぎ、東の空が明るく輝きだす。ご来光と雲海の共演だ。通常、こうした風景は数時間かけて山を登り、山小屋やテントで泊まった人だけの特権だ。しかも、運が良ければの話。でもここなら、バス停から歩いて20分でこの景色だ。
こんなに気軽に3000m級の景色を望める場所は日本中探しても乗鞍だけだ。
山から降り、昨日から泊まっているペンション「テンガロンハット」で軽く仮眠をとったあと、寝覚めのコーヒーを飲むために乗鞍バスターミナルにある「GiFT NORIKURA」というカフェに立ち寄る。店内の壁一面は黒板になっていて、そこには「Wellcome to Mt.Norikura」の文字とともに「GiFT NORIKURA」が中心になって行っている、乗鞍のサスティナブルな活動も記されている。マイボトル推奨はもちろん、リユース食器の採用、生ゴミのコンポストなどのほか、地産地消にもつとめ、地域としての活性化も目指している。
「大好きな乗鞍がこれからも美しいままで持続していくために、自分になにができるだろうと考えた時に、地元の人はもちろん、観光で訪れる人にも、ささやかながらサスティナブルに意識を向けてもらえたらと思って、このカフェを始めたんです」
オーナーである藤江佑馬さんは、GiFT NORIKURAの他にも、廃業予定だった旅館を若者に人気のゲストハウス「雷鳥」へとリニューアルするなど、乗鞍の未来を担う若い世代の代表だ。
カフェの近くを散策していると立派なトレイルヘッドが目に入る。
「乗鞍の住人にとっての原風景なんです」と、先述したペンション「テンガロンハット」のオーナーであり「のりくら観光協会」の会長である宮下了一さんが朝食の席で教えてくれたトレイルの入口だ。
「のりくらトレイル」「一の瀬草原トレイル」「三本滝トレイル」という3つのトレイルが整備されていて、すべてを歩こうとしたら健脚な人でも優に丸一日かかる、かなり本格的なトレイルだ。自然物を上手に利用したトレイル整備には藤江さんら若い世代の力も大きい。一方で、いまでも付近の人々が山菜をとりにくる場所という顔も残している。
「新しい世代と昔から乗鞍に暮らす人々が手を取り合った先にこそ、理想的な乗鞍の未来があると思うんです」
乗鞍の観光の移り変わりを30年以上見続けてきた宮下さんが言った言葉に「サスティナブルに取り組むこのカフェで働きたくて乗鞍に来たら、虜になって移住した」という「GiFT NORIKURA」の若いスタッフ2人の言葉が重なる。彼女たちの輝く笑顔を見てもわかるように、未来への種はすでに芽吹きはじめている。
少し遅めの昼食をとった後、腹ごなしをかねて「一の瀬草原トレイル」を歩くことにした。白樺の林を抜け、いくつかの美しい池を通り過ぎる。
春に訪れれば、ミズバショウが群生する場所も数多いという。ふかふかのトレイルをのんびりと時間をかけて歩いて行くと、子供時代に遊んだ里山を思い出す。変化に富んだトレイル上にはいくつかの美しい池もあり、そのひとつひとつでゆったりと休憩しながら歩みを進める。
約3時間後、そんな池のひとつである「まいめの池」のほとりにいた。
とても静かだ。遠くには乗鞍岳の姿が夕雲に霞んで見えている。
この地に縁のない身からしても、“原風景”という宮下さんの言葉が腑に落ちる。
「ここに人が溢れてしまったら、元も子もないでしょう。だからオーバーツーリズムを防ぎつつ、幅広い中部山岳国立公園の魅力を発信する必要があると思っています。そのためには、訪れる人に対して、それぞれが点で発信するだけではなく、面で捉えてもらう必要があるんです」
そう語る森川さんが中心となって進めているのが「松本高山Big Bridge構想」。松本市街と高山市街を繋ぐ横断観光ルートの設定で、各地の見どころをピックアップして繋いでいくことで、一点への集中を避けると同時に、長期でのんびりとエリア全体を堪能してもらいたいという狙いだ。
「ゆくゆくは、山岳エリアと街中をつなぐ新しいトレイルルートを設定する構想もあります。訪れる人が自由に選択できるような、さまざまなルートを、いま模索している最中なんですよ」と、森川さんが続ける。
翌日は、ゆっくりと時間をかけて、森川さんのBig Bridge構想の一部を巡ってみた。
リニューアルを控えた新穂高ロープウェイから見えるハイマウンテンに息を呑み、高山の古い街並みに歴史を感じ、動き回った一日の疲れは平湯温泉で癒す。
このエリアには、登山をはじめとしたアウトドアアクティビティはもちろん、歴史、風土、食など幅広い魅力が凝縮されているから、人それぞれ、自分の好みにあった旅のストーリーを紡いでいくことができるのだ。
北アルプスの高峰に挑むも良し、温泉巡りをするも良し。ひたすら乗鞍近辺のトレイルを散策するというのも魅力的だ。
2泊3日とは思えないバリエーション豊富な旅だったが、それでも時間が足りないと感じた。今回巡った地の他にも、このエリアは数え上げたらキリがないくらい見どころに溢れていることが感じられたからだ。
それらを見てまわるには日帰りの弾丸ツアーでは絶対に無理だ。滞在することが旅に深みを増すというのは以前から思っていたことだけれど、中部山岳国立公園はまさに長期滞在するのにうってつけの場所。
まだ見ていない魅力がたくさんある。正直言って、今回の旅では、魅力の一端を垣間見ただけだ。だけど、中部山岳国立公園の明るい未来にもまた、確信が持てた。気候危機が叫ばれ、自然環境にとって苛酷ないまの時代だけれど、この地はきっと、10年後、30年後、より良く変わっているに違いない。そんな希望が見えた旅でもあった。