#14
厳しい自然が育んだ
豊かさに関する5つの視点 (3/5)
撮影:木本日菜乃
文:櫻井 卓
芸能、芸術の起源を求めて
ここで、ちょっと風変わりな山伏との出会いを紹介したい。名前は坂本大三郎さん。山伏と聞いてイメージするのとはだいぶ違う雰囲気。柔らかさと静けさが同居した、心地よい穏やかな声で話す。
彼が山伏として追求しているのは、芸術や芸能の起源を知ることだという。
世界各地の芸術祭に参加している、ある種、新時代的な山伏。
その探求の地として、なぜここを選んだのか。
彼が山伏になって、20年が経つ。
「月山の森をフィールドにしているんですが、そこに穴を掘って、光を遮断した状態で籠もるということをしています。なんで籠もるか、ですか?
山伏の文化の肝の部分って、籠もるところにあるんではないか、という僕なりの考えがあるんです。籠もることで、自分がどういう状態になり、どんなことが起こるのかを確かめてみたくて籠もっている感じですね。社会の原点というか、その根源では自然と人間が特殊な精神状態の中で向かい合って、交渉して生み出してきたものが文化や芸術になってきたと僕は考えているのですが、おそらくとても古い時代には洞窟のような場所に籠っておこなわれていた。それを自分なりに再現してみたいと。
それはかなり個人的な体験ではあるんですが、そこを突き抜けた先に普遍的なものに触れられるんじゃないか、そんな期待感はあります」

「それをアートとして捉えてくれる人も居て、2022年にドイツでおこなわれたドクメンタ15という芸術祭では、3日間籠もって、出てきた時に山伏の芸能をする、ということをやったんですが、予想外に大きな反響で。僕としては個人的な関心で芸術の原点を知りたいと実践していたことが、現在のアートとして成立すると思っていたわけではないのですが、もしかすると山伏の文化に残っている籠もるという行為には、世界共通の“なにか”があるのかもしれません」
「もともと、人間はなぜ絵を描くのか、芸術とはどういうところから来たのか、ということを知りたかったんです。このテーマを突き詰めていくと、人間ってなんだろう、というところまで掘り下げていける。その手がかりとしてこの地域の山伏文化、とくに籠もるということは大きなヒントになると思っています。
芸術の起源については、一生かけても本当の答えには辿り着けないと思っていますし、誰かの役に立つかも分かりません。僕が実験したものを後々の人が考えてもらえれば良いかなという感じです」
「ここで暮らすようになって、山伏の文化だけではなく、自然の中で生きてきた人たちの技術や知恵を学びたいという思いが強くなりました。そういったものはかつて日本中にあったものですが、かなり忘れ去られています。そんな中、この出羽三山には、そういったものがいたるところに残っている。だからこの土地を選んだというのは大きいです」


「例えば、山菜採りに代表されるような、山で採れるものをどうやって活かすか、という知恵。面白かったのは、木の皮って剥ぐ時期があるんです。あそこに置いてある箕(みの)とかもそうなんですが、ウリハダカエデという木の樹皮でできています。樹皮が丈夫なので、縄にしたりもしてた木です。
それをやってみたくて、山に行って刈ってきて皮を剥がそうとしたんですが、どうやっても剥がれない。昔の人はどうやってたんだろうっていろいろやってみてたら、ある時期が来るとペロッと剥がれたんです。知っていたら簡単なことですけど、こうしたことも途絶えてしまった途端にできなくなってしまうんだなあと、妙に感心しました」
「ほかにも、かつて山伏が実践していたという葉っぱと焚き火だけでご飯を炊く技術。米を葉っぱに包んで、焚き火の下に入れて炊いていたというんですが、具体的な方法は残されていません。それをどうにか復元したいなと思って、いろいろ実験してみたんですが、ぜんぜん上手くいかないんです。最終的に僕が出した答えは、干し飯を蒸すという行為だったんじゃないかと。
まあ、そういう今の世の中では役に立たないことをやってたりします。でも、そこにはやはり知恵の凝縮がありますし、実践してるとシンプルに楽しいんです。
テクノロジーって、自分からいろんなものを切り離していってしまう側面がある。体力のある人は、体力があるが故に、どんどんと深い山に入って、引き返せなくなり遭難することがあります。テクノロジーも同じように強く突き進んだ先でほころびが生じたときに、自然の中で素朴な技術で生きていけるような、立ち返る場所があったら良いなと、自分はそう思っています。
山伏や昔の人の知恵を知ることで、現在の価値観では見過ごされてしまうものの中にある楽しさとか喜びというものも大切だなあということを感じています。自分としてはそうしたものが無くなってしまうのはもったいないと感じます」

「僕の中では修験と山伏はちょっと分けて考えているところがあります。宗教と信仰の違いというか、横にどんどん広がっていく宗教に対して、信仰って土地に根差したものというイメージを持っています。その土地ごとに結びついていく山伏って、存在としてはノイズです。神道や仏教のようなメインストリームではなく、時代ごとに姿を変えていく、混沌とした存在だと僕は捉えています。
日本古来から続いてきた文化的な細い糸のような存在とも言えるかもしれません。占いや祭祀、製薬や製鉄、傭兵稼業など、実社会と強く繋がっていた時代もありますが、世のはみ出し者という側面も持っていたはずです。さらに言えばテクノロジーが進化した今では実際的に役立つものではありません。でも、残ってきた。ざっくり言ってしまえば、役に立たないのに残った。ということは、そこには日本人の根っこのようなものがあるかもしれませんよね」
「いま現在の人にとって、山伏やその文化を必要としているかと言ったら、直接的には必要じゃないと思います。ただ、これから先、世の中が変わっていったとき、必要とされるタイミングが来るかもしれないと僕は思っています。
これはあくまでも自分の浅はかな推測ですが、今後テクノロジーの進歩によって、人々が仕事から排除されていく。仕事で社会と繋がっていると感じている人は多いと思います。自分が必要とされない社会に対して、どう立ち振る舞うのか。自分自身っていったい何者なのか、と問われるわけです。そうした時に、もしかしたら日本人にとって自然を象徴していた山の精神性のようなものが拠り所になるのではないかと思うんですよね」


「ただ、自分が山伏の文化をきちんと継承しているかというと、ぜんぜんそんなこともないんです。修験をきちんとした形で残そうとしている方もたくさんいらっしゃいますし、そういう方からみたら「あいつはなんなんだ」という存在かもしれません。でも、いろんなやり方で残していくというのも、繋いでいくためのひとつの方法なのかなと思っています。いろんな人がいるということが、文化的豊かさだと思いますので」
坂本さんが籠るという穴を見せてもらう。地面を掘って、木組みで補強した簡素なものだ。
周囲には集落からもらってきたという古い農具や生活道具。土地の自然と紐付いたそういったものたちが、ここにはまだ数多く残っているという。ただ、それらに対する興味は急速に失われつつある。実際的な役には立たないからだ。
好奇心と小さな実践から見直される事柄。失われてしまえばおそらく2度と戻ることはない。
